もう25年前の話になるのですね。
1995年1月17日、午前5時46分
会社で仕事をしていた私のもとに16日の午後1時過ぎに日本のお客様から電話があった。「関西で大きな地震があった。ご両親に連絡したほうがいい。」早速、私の実家に電話をしたら母親とつながった。「大きな地震でマンションの壁にヒビが入って外が見える。でもみんな無事だから心配しないで・・・」安心して電話を切った。それから3日間電話がつながらなかった。でも直後に声が聞けたので安心した。
それでも私の家族のいる芦屋では600人の人が亡くなったと聞いた。1週間後には私は関空に到着して、電車で実家に向かった。JRで「終点芦屋」と聞いたのはあとにも先にもこれが最後だった。水も出ない生活が続いていた。自衛隊も出動に4日近くかかっていた。その時の経験がそれ以降の災害には役に立っているようだ。
全部で5000人以上の方々が亡くなった大災害。今日で25年。皆様のご冥福をお祈りいたします。
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代表取締役
内倉憲一